日々の雑記帳

日々考えたことのあれこれ、ピアノ、読書、美術館めぐりなど。

ブログの効用

先日アップした記事と、その直前の記事を読み返したら、100日以上間があるのに、ほとんど同じことを書いている!!

同じようなことを感じ続けているのか!?

 

というより、同じことを感じるのなら、もっと明確に、どうしたいかをはっきりさせておいた方がいいのじゃないか、と気づいた。

 

自分の意志と、周りの気持ちを、うまく共存させていく方法をいつも考えているんだな。

でも一つには、いつも周りを優先させている!と被害者意識に陥りがちだけど、自分で望んでやっている場合もあるし、周りが協力してくれてる場合もあるってことにもう少し気付きたい。

 

自分で望んでやっている場合、というのは、まず家族が大事だ、という気持ち。

これは、犠牲者精神というより、本当に家族が私にとって一番大事だから、やっている部分がある。だけど、それをやっているときにも、もっと自分のことを細かく優先するといいと思う。ちょいちょい、息抜きをするっていうか。

人に頼むのが嫌だったというのもある。人に任せたくないという気持ち。親が近くにいれば預けられたけど、いないから仕方ない。

息抜きが、下手なんだよね、真面目すぎるっていうかさ。

でも、まあ、それもいいところとしよう。

 

それから、周りが協力してくれてる部分もある。私の趣味に付き合ってもらってるし。

言ってみれば、全然いいよ〜みたいなのがほとんどだし、自己主張するときに、たとえ相手から、反対意見や感情的なNOがあっても、“まあまあ、話し合いましょうよ。“という精神を持っておきたい。

反対意見が出るだろうから、主張しない(自分を抑圧) or 反対意見は押さえつける(相手を抑圧)。

このどっちかじゃなくて、共存していきたい。“まあまあまあ。“っていう、精神で。

 

それから、意外と昔夢見たようなことが、叶っていたりする。

なのに、夢見るときは、強烈なのに、叶うときは、スルッと叶っていて、違和感なさすぎて、“いつかの夢が叶った“ということに、気づかないことがある。

いや、もっと気付こうよ、という感じ。

スノーリゾートの計画や、子どもの教育プランなど、数年前くらいになんとなく願っていたことだよね?

“時にかなって美しい“、というそうです。この、実が熟すに時あり、というような表現、とても美しいなぁと思う。物事にも機がある、ということで、それを待つ楽しみのようなものを感じさせる。時を待つ楽しみ。

 

それと、家族のことも一区切りついたから、大きな意味で、これからはもっと自分を優先させていけると思う。なので、これからは、自分と周りの共存というより、自分の行きたい方向を、よりはっきりさせて、それを主張して、周りと協調していく、というのがいいと思う。

 

目標を、はっきりさせる。

 

舟唄を弾く。もう絶対。1年あれば、なんとかなるのでは?

自分らしい仕事を紡いでいくことは、変わらない。

ただ、その比重は、ずっと前のように、生活のほとんどを占めるような形には、もうならない。

家族の部分への配分も、変えていく。1と2のバランスで言うなら、1の部分をもっと増やす。私だけの行動を、もっと増やす。週末に友人に会ったり、子どもとは別の行動。絶対もっと気楽に自由にほとんどの人がやっていると思うけど、私の場合、修行みたいに家族の方を優先していた。でもそれにも言い分があって、家族との時間は今だけだけど、また時間が空く時が必ずやってくるから。だから、今は家族の方に集中しよう、と。

だからって、息抜きしたらいいと思うから、やっぱり真面目すぎる。

バランス取るのが、苦手なんだよな・・・。

これ、となったら、そこに猪突猛進になってしまう。

だけど、それもいいところということにしよう。だけど、“息抜きをする“っていうのを、頭に置いておこう。ちょいちょい小さく、息抜きをして、自分のために毎日何かをやるようにしたい。大きいことがすぐできなくても、小さいことなら、毎日できる。

今後は、子どもだけで、実家に帰しても、逆に戦力になるだろう。

本当は一人で海外に旅行に行きたいのだから、まずはリハビリを兼ねて、国内で一人旅をする!とお題目を掲げたものの、いざ一人になったら、逆に何をしていいかわからなくなる、という本末転倒・・・。

ずっと、あの時の私はどこへ?という気持ちがある。

以前は、なんでも自分でできたし、どこでも一人で行っていたし、今考えても、なんでできたんだろうと思うようなこともしていた。考えなしだっただけかもしれないし、今経験が増えた分、慎重になってしまっているのかもしれない。体調変化もあったし、今と昔の自分が違うのも、当たり前だと思う。

こうやって昔は良かったみたいに思っているけど、あの頃の私が今の私を他人として隣から見たら、羨ましいってことだってあるだろう。なんでも一人でやらなくていいし、誰かに頼れる、とか・・。隣の芝は青い、をずっと無限ループでやってるだけなら、もっと成長したい。

でも、あの頃のあの自由な感覚を取り戻したい。

 

あとは、焦らない。

何者かになろうと、焦りすぎ。日常を普通に生きていれば十分じゃない?

 

 

 

 

 

 

 

 

ピアノ日誌:ラヴェルのソナチネ第1楽章とバッハの平均律第1巻22番

今取り組んでいるのは、ラヴェルソナチネ

第一楽章、譜読みは簡単だけど、弾きこなせない。初めてのラヴェル

内声がうるさすぎるし、主旋律は歌えてないしと、未だ頂上見えず。

初めて取り組む作曲家って、難しいのかな。相性?

昨年弾いたブラームスは、初めてだったけれど結構あっていたんだけど、ラヴェルが難しい?それともフランスもの全般?

でも、始めた以上、ある程度までまとめたい。

 

同時に取り組んでいた、平均律第1巻22番の方は、だいぶゴールが見えてきた。

初めて5声に取り組んだかも。4声ですら、そこまで得意じゃないのに、先生も躊躇せずに選んでいたけど・・・。やってみるまで、私も5声だって気づいてなかった。

最後の部分以外は、なんとかまとまってきたから、よしとしよう。

22番の前奏曲を弾くたびに、小川洋子さんの“ことり“を思い出す。

私の中で、この曲は“ことり“の曲としか思えない。

 

今年の目標は、ショパンの舟唄。

これを発表会で弾く、と。

譜読みはなんとかなると思う。あとは、練習量。

でも、家族のイベントも終わるし、今年はこれまでより自分のために時間を使おうと思っているから、もう少し比重をかけられると思う。

 

今日の悟り

今朝、久しぶりの散歩。

冬は寒くて、外に出られず・・・。

でも、久しぶりに歩いてみると、やはりどれだけ寒くても、散歩すべし、と誓いを新たにするのだった。

来冬、朝の寒さに負けず、しっかり歩ける意志の強さを持っていたいな・・・。

 

今朝の悟り。

 

他人を満足させることはできないから、自分の意志で進むべし。

何をしても、他人を満足させることはできない。

人はそれぞれ、その人が持つ価値観のミラーボールで光を反射してくる。

その人が満足するように返しても、一瞬すごーい、と称賛を得られるかもしれないけれど、気まぐれだから、相手はずっと覚えていたりもしない。

逆に、その人の価値観からするとNGなことをしていて、白い目で見られたとしても、それでやめたら、私は幸せになれない。他人の気まぐれな価値観の反射に振り回されていても、自分の中が空洞になってしまうだけ。

親戚とか、両親とか、友人とか、その場の大多数の持つふんわりした価値観的なものと、自分の心が違う場合に、大多数の価値観を嗅ぎつけて、そこに合わせようとしてきた自分に改めて気づいてしまったな。

大多数の価値観を嗅ぎつけたときに、そこに合わせることばかりやってきたから、自分の心の声を聞き取る聴力をもっと鍛えたい。

大多数の相手と私の価値観が違うとわかっていながら、自分の心の声に従って行動し、さらに、そのことをジャッジしてくる相手に対して、さらりと主張する自分になりたい。相手を否定するわけではなく、“あなたはそう思うんですね。私はこう思いますよ(笑顔)“という感じ。

大体、そういうとき、相手が腑に落ちない顔になっちゃうのがわかるから、やりにくい。

なので、“空気を読んでも従わない“っていう鴻上さんの作戦を実践できるようになりたいな。

腑に落ちないのは、わかってますけど、スルーしますね。っていう心持ち。

これって、絶対長女あるあるだと思うなぁ〜・・・

子どもの友達を見てても、親の顔色伺ってる子と、そうじゃない子ははっきりわかる。

大体、一人っ子や第二子以降はそこまで伺わない。

長男長女はそういうとこあるよね。親の接し方もかなり変わってしまうから仕方ないんだろうけども。前半生を優等生長女として過ごしてきて、後から“空気を読んでも従わない“アプリを搭載するのって、訓練が必要。でも、いつでも自分の気持ちを最優先!していこう。

自分だけの気持ちで進むんじゃなくて、周りの気持ちも聞きつつ、私の気持ちを優先していくっていう感じで。

 

自分の意志を通す

自分の意志を通すのって、簡単なようで案外難しい。

 

一番難しいと思うのが、ほぼ無意識で空気を読んでしまってる場合。

なんとなく、調和なのか協調なのか、周りを読むのがもう習慣化しちゃってて、自分でも気づいていないケース。

 

自分の意志を通すのが、なんだかエゴイスティックなことのような空気がある。

でも、考えてみたら、自分しか、自分の意見も気持ちもやりたいことも、主張してあげれないじゃない?

それなのに、いつもその声を周りの”空気”に合わせてたら、ずっとその声は抑圧して、なかったものにしたまま?

 

大体、その”空気”って、”空気”なわけだから、何か確たるものではないんだよね…。

悲しいかな、それに合わせていたからって、何かが確立されるわけでも、何かが残るわけでもない。

 

自分の本当の気持ちに沿うっていうことが、慣れてないというか、やったことがないというか、どうやっていいのかわからないというか。

 

こんなことを書いているのは、私、もう少し、というより、これからは、自分の気持ちをもっと全面に出して優先していこうと思っているから。

 

なんとなく、自分の役割を優先してやってきたけど、それってどうなんだろう??と。

自分なりに、これまでも、役割からの呪縛と戦ってきたなって思うけど、足跡を振り返ると。

でも、もっと主張していいかなって。いこうかなって。

というより、個々が主張していく世界の方が、みんなが自分の足を地につけている世界なんじゃないかなって思う。

 

自分の意志を通そうとする人に対して、批判ばかりする人って、心の底では意志を通す人のことが羨ましくて仕方ないんじゃないかなと思う。

そうじゃなかったら、無関心でよくない?

きっと、”私は、意志を通したかったのに、通せなかった、遠慮してきた、意志を通すなんて、いけないことだ。周りを優先しなくては。”みたいな、抑圧があったんじゃないかな。

でも、批判にむけるエネルギーがあるんだったら、いっそのこと、今自分が一番やりたいことに思い切ってぶつけちゃう方が、楽しいと思うな。

 

その時に、多分、無理だから、みたいな悲しい気持ちが湧いてきちゃうのかな。

と推察する。

でも、他人のことにエネルギーを費やすくらいなら、もったいないから、そのエネルギーを自分のために使った方がずっといいように思う。

エネルギーだって有限だし、時間も有限。

それなら、それは自分に使いたい。

 

周りとのバランスを感じ取りながらも、自分の意志を通して、地に足をつけて生きていく。というのが、今私がやりたいこと。

 

自分の思うがままに周りも考えず、でもなく、周りばかり気にして、自分のやりたいことをしない、でもなく。

周りとの調和を感じ取りながら、バランスを取りながら、自分の足で歩いて行く。っていう感じ。

 

 

 

 

ラブ上高地

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ラブ上高地❤️

綺麗すぎる。

先日ひょんなことから、旅することになった上高地

10年以上ぶりの再訪です。

本当に、本当にきれいでした。

梓川の白い石の河原も、日本と思えないような不思議な風景で、8月の豪雨で流されたのか、流木が白い骨のように散らばっていて、歩けど歩けど、屏風のように、美しい山々が次々と現れて・・・、途中可愛い小猿まで、出現しました。(シャッターチャンスは逃してしまった^^;)

モフモフで可愛かったです。

あらゆる方向から水がたゆたゆと流れていて、木々の間から日光が煌めいて・・・。

この世のものと思えない美しさでした。

 

帰ってきてからも、上高地病です。

毎日、ライブカメラをチェックしちゃってます。

時計みたいに精巧な自分のご機嫌

今日は、なぜだか寂しさを感じる日だった。

といっても、のんびりできたのだから、そこは充実感を感じてもいる。

 

 寂しさの元ってなんなんだろう、と考えてみると、もしかしたら、私自身の声に耳を傾けていないからなのかも、と思えてくる。

 

私自身の声ってなに?って思うのだけれど、“こうするべき“、“こうしたら楽しいはず“、“こうしたら充実した1日になるはず“、、こういうのって、心の声じゃない。

実は、頭の声。

頭にインプットされてる、過去や外の世界から引っ張ってきた声なんだよね。

多分、そっちで進めちゃうと、自分の心が置いてけぼりになって、それで寂しさを感じる。

 

なんてね。分析してみたんだけど、寂しさの原因がはっきりわからないこともあるよね。

 

新月だったし、何か、感情の澱みたいなものが浮き出てきているのかもしれないし。

はっきりわからない時は、とりあえず、ゆっくりお風呂に入ったり、のんびりリラックスして、“今日も頑張ったね、私❤️“、と声をかけてあげよう。

 

だって、毎日頑張っているもんね。

 

 

駆け足で春が来た

あっという間に春が来た感じ。

花々の変化が激しい。または、自分が忙しくて、あまりゆっくり自然を眺める時間がないからなのかも。

桜が開花、満開、ハラハラと散る、葉桜になる・・・。

満開も楽しんだけど、心が騒がしいから、うっとり眺める気分に浸れないのか。

緑道沿いに桜が満開で、山吹も満開で、チューリップなどの球根花も満開で、こんな近くに地上の天国だわ、と毎日思う。

それでも、あっという間に春が駆け足で、緑を深めていく。

あんなに小さかった柔らかい若葉が、今ではまるで青年のように緑に生い茂っている。

最近、思春期へ駆け足で向かう娘から、いろいろ流行歌を教えてもらう。

なになに、夜遊び??
みたいな。でも聞いてみると、気に入ってしまう。

歌詞が、やたらと“世界の終わり“がテーマになっているような・・・。

若いと、世界の終わりを考えることで、自分の生をはっきり感じられるのだろうか。

ずっと終わりがないくらいに生に満ち溢れているから、逆に世界の終わりを仮定したいのかな。

私なんて、世界より自分の終わりが気になるし。

世界を気にかけるより前に、自分の体調が気にかかる。

そして、思春期の娘が持っている“自意識“なるものが、どこを探しても見つからない。

まぶたが三重になっていないか、毎朝しっかり吟味してから出かける娘。

自分も、そんな時代があったなと、うっすら記憶に残る。

今では一体なにをそんなに気にしていたのかわからないくらい、車幅間隔が分からないのと同じくらいに、体幅感覚もわからない。

 

なんだか、最近ふとコロナの前が懐かしい。

あれ、一度もこれまでそう思ったことなかったな、と思うのだけど。

私にとっては、緊急事態も、無理に人と会わなくてすみ、ありがたかった。

空気に満ちる、“もっと、もっと“と追い求める欲のスピード感みたいなものも、かなり無くなった気がする。この、もっともっとのスピード感を感じるたびに、千と千尋の神隠しの、カオナシを思い出す。

一体、何のために、もっともっとと食べ、飲み込んでいるのかわからない、食べ、飲み込んでいる自分は何なのかわからない、そんなままで、もっともっとと前に突っ走る、そんな空気感。

そんなに急いでどこへ行く、っていう感じ。

それが強制リセットされて、誰もが一旦うちに(家にも、自分の内面にも)こもって、こもらざるを得ないような時間があって、それが私みたいな人間には、心地よかった。

少なくとももっともっと、外へ外への空気から感じる、息苦しさ、閉塞感が無くなった。

でも、今なにが懐かしいのかな、と思うと、自由な移動かな、と思う。

いろんな場所へ、ただ訪ねたいな、と。

両親だったり、親戚だったり。会いたい人に、会いたいな。

そして、大好きな場所へ、行きたいな。

ただ、それだけ。

それが、少し懐かしい。なにも考えなくて、移動できた時が、懐かしい。

でも、もう少しかな。それともまだ当分?

まあ、どちらにしても、今はどこにも行けないし、動けない。

でも、考えてみると、今切実に会いたい人以外、思い出さなくなった人もいる。

なんだか、はっきりしたものだ。

自分の気持ちも、前よりずっとはっきりして、大事なものと、そうじゃないものがくっきりと際立ってきている感じ。

前は、自分の気持ちをごまかすために、動いていた時もあったように思う。

今は、動けない分、自分の気持ちがはっきりしてくる。

ひとまず、何かお気に入りの映画を見に行きたいな。

結論がないフランス映画風なもの・・・。見ると必ず最後イラッとするのに、それでも、起承転結が想像できちゃうストーリーより、今は惹かれる。