駆け足で春が来た
あっという間に春が来た感じ。
花々の変化が激しい。または、自分が忙しくて、あまりゆっくり自然を眺める時間がないからなのかも。
桜が開花、満開、ハラハラと散る、葉桜になる・・・。
満開も楽しんだけど、心が騒がしいから、うっとり眺める気分に浸れないのか。
緑道沿いに桜が満開で、山吹も満開で、チューリップなどの球根花も満開で、こんな近くに地上の天国だわ、と毎日思う。
それでも、あっという間に春が駆け足で、緑を深めていく。
あんなに小さかった柔らかい若葉が、今ではまるで青年のように緑に生い茂っている。
最近、思春期へ駆け足で向かう娘から、いろいろ流行歌を教えてもらう。
なになに、夜遊び??
みたいな。でも聞いてみると、気に入ってしまう。
歌詞が、やたらと“世界の終わり“がテーマになっているような・・・。
若いと、世界の終わりを考えることで、自分の生をはっきり感じられるのだろうか。
ずっと終わりがないくらいに生に満ち溢れているから、逆に世界の終わりを仮定したいのかな。
私なんて、世界より自分の終わりが気になるし。
世界を気にかけるより前に、自分の体調が気にかかる。
そして、思春期の娘が持っている“自意識“なるものが、どこを探しても見つからない。
まぶたが三重になっていないか、毎朝しっかり吟味してから出かける娘。
自分も、そんな時代があったなと、うっすら記憶に残る。
今では一体なにをそんなに気にしていたのかわからないくらい、車幅間隔が分からないのと同じくらいに、体幅感覚もわからない。
なんだか、最近ふとコロナの前が懐かしい。
あれ、一度もこれまでそう思ったことなかったな、と思うのだけど。
私にとっては、緊急事態も、無理に人と会わなくてすみ、ありがたかった。
空気に満ちる、“もっと、もっと“と追い求める欲のスピード感みたいなものも、かなり無くなった気がする。この、もっともっとのスピード感を感じるたびに、千と千尋の神隠しの、カオナシを思い出す。
一体、何のために、もっともっとと食べ、飲み込んでいるのかわからない、食べ、飲み込んでいる自分は何なのかわからない、そんなままで、もっともっとと前に突っ走る、そんな空気感。
そんなに急いでどこへ行く、っていう感じ。
それが強制リセットされて、誰もが一旦うちに(家にも、自分の内面にも)こもって、こもらざるを得ないような時間があって、それが私みたいな人間には、心地よかった。
少なくとももっともっと、外へ外への空気から感じる、息苦しさ、閉塞感が無くなった。
でも、今なにが懐かしいのかな、と思うと、自由な移動かな、と思う。
いろんな場所へ、ただ訪ねたいな、と。
両親だったり、親戚だったり。会いたい人に、会いたいな。
そして、大好きな場所へ、行きたいな。
ただ、それだけ。
それが、少し懐かしい。なにも考えなくて、移動できた時が、懐かしい。
でも、もう少しかな。それともまだ当分?
まあ、どちらにしても、今はどこにも行けないし、動けない。
でも、考えてみると、今切実に会いたい人以外、思い出さなくなった人もいる。
なんだか、はっきりしたものだ。
自分の気持ちも、前よりずっとはっきりして、大事なものと、そうじゃないものがくっきりと際立ってきている感じ。
前は、自分の気持ちをごまかすために、動いていた時もあったように思う。
今は、動けない分、自分の気持ちがはっきりしてくる。
ひとまず、何かお気に入りの映画を見に行きたいな。
結論がないフランス映画風なもの・・・。見ると必ず最後イラッとするのに、それでも、起承転結が想像できちゃうストーリーより、今は惹かれる。