日々の雑記帳

日々考えたことのあれこれ、ピアノ、読書、美術館めぐりなど。

自分がエンパスだと気づいた話

エンパスとか、HSPとか(これら二つは違うものだけど)、このごろすごく聞くようになって、自分が繊細でおかしいんじゃないかと思っていた人たちには、朗報だと思う。

多分に漏れず、私自身も、自分の繊細さや、感受性の強さや、よくわからないそのほかの能力(能力とすら認識していなかったもの)に、振り回されてきた。

特に、会社勤めをしていた頃は、この能力で困ることが多かった。

例えば、会社のフロアで仕事していると、他の人の気配が気になって仕方ないとか、他の人の圧をいつも感じてしまうとか、人間関係(自分に関係あるものもないものも)が見えすぎたり、人の放っているエネルギー(だいたい黒いエネルギーだったけど)に疲弊していた。他の人より疲れていたから、自分の能力と結びつけて、自分が敏感すぎるとか、割り切れていないとか、そういう方向で考えてしまいがちだった。

あとは、その場(仕事場)から離れているのに、そこにいた人のことが頭から離れないで、ずっとぐるぐる考え続けてしまうというのにも困っていた。

それでいて、自分がエンパスやHSPだとは気づいていなかったので、(そもそもこういう単語が世の中に溢れていなかった)疲れやすいな、とか逆にどうして他の人は、こういうことが気にならないんだろう?こういうことに気づかないんだろう?と思ってはいたけど、自分にそういう能力があるというふうには考えたことはなかった。

また、エンパス能力に気づいていないがゆえに、グラウンディングや境界線の意識も薄いまま、無防備に無自覚にエンパシーを発揮してしまっていて、“自分“を守れていなかった部分もあったと、今はわかる。

その後、実際にエンパスでサイキックであるカウンセラーの方とお話ししている中で、どうも自分はエンパスらしい、ということに気づいて、そこからエンパスってなんなのかということを調べ始めた。

とりあえず、自分で認識できた能力としては、まず

人の感情を拾う。

これは、人混みや、会った人、ある場所にいた人(一緒にいなくても)の感情を文字通り拾う。自分が細かいネット(網)で、そこに、落ちている感情を拾ってしまうという感じ。

だから、突然意味もなく悲しくなったり、イライラしたり、不安になったりすることがある。ディズニーに行ったときに、お土産売り場で、突然悲しくて寂しい気分になったことがある。どうして、あんなに楽しいところにそういう感情が落ちてるのか?と思ったけれど。逆に嬉しい楽しい気持ちは落ちていて当然だから、もらって自分もより楽しんじゃうから、疑問に思わないけれど。

あと、共感覚と呼ぶらしいけれど、五感の感覚(例えば聴覚)を、別の五感(例えば視覚)で感じたりすることがある。これは、ローズ・ローズトゥリーさんの(ガリレオ・ガリレイさんみたいなお名前だけど)“エンパシー 共感力のスイッチをオン/オフしよう“に書いてあって、初めて気づいたものだけど、例えば、朝の鳥の声を、きらめく光のような視覚的にも感じたり、神社の鈴の音が、七色に感じられたりする。音が視覚化することが多いけれど、いつもではなくて、とても特徴的な、強い印象のある、きれいな音の時だけ、私の場合は起こるように思う。

こういう、感覚的な話って、言っている自分も、なんだか文章にするとあやふやで怪しいなぁ、なんて思ってしまうところがあるけれど、実際、自分の感覚なのだから、仕方ない。

エンパスとか、HSPというのは、全て本人の感覚に依拠しているだけに、そうでない人に説明したり、わかってもらおうとするとき、どうしても一抹の、“自分の思い込みなんじゃ“という、自己不信や自己否定とセットになっている。(私の場合は)。きっと世間軸に合わせようとしすぎてしまった過去の遺産なんだろう、と思って、これからは私自身の感覚をしっかり信じて、表現していこうと思う。それに、この感覚を持ったことがない人から見れば、“思い込み“という理由づけしかできないだろうと思う。やはり、自分の感覚や、自分の感じ方を信じることがすごく大切だと思う。

他にも、他人の感覚を自分のもののように感じる、というのがあって、これは私の場合だと、

相手の肩こりとか、体の痛みをもらっちゃうという場合もあれば、見た目はとてもいい人そうに見えるのに、その人の心の中が黒くて、その重みというか暗さにびっくりするというのがある。後者の場合は、だいたい笑顔で挨拶して別れているのに、その後に、自分の体が重たくなって、相手のエネルギーの重さにびっくりするという感じで気づくことが多い。

表面上の見え方と、中に抱えているものが違う人というのは、けっこういるんだな、といまだに驚くことがある。最初から、目で見えてればいいんだけど、体の感覚でもらって初めて気づくから、そのためにも、境界線の意識とか、グラウンディングしておくことがすごく大事だなと思う。

(そうじゃないと、細かい網目みたいに、いるものもいらないものも、知らない間にもらいまくってしまう。)

あとは、相手の価値観を無意識に取り込んでしまうくせがある。

これは、“未熟なエンパス“におこりがちなことではないかと思う。相手の価値観のコピーができるのだけど、相手の価値観は相手のものであって、自分のものではない。

エンパス能力がもともと高い人は、相手のニーズを汲み取るのが上手いので、知らないうちに、相手の価値観に見合うように行動してしまうことがある。これは幼少の頃からのくせなので、(母親に対する、エンパスなりの適応戦略かと思うが。)なかなか気づきづらいが、エンパス傾向の高い人は、普通にしていると相手のニーズを汲み取れるので、逆に常に自分のニーズに心を集中させるようにしたほうがいいと思う。

自分のエンパス能力に気づいてから、人と繋がる際に気をつけていることが、逆に繋がりすぎないこと。

世の中一般(今、変化しつつあるけれど)では、たくさん繋がる方がいい、というのが通説だけれど、私のような体質の場合、普通に繋がってしまうと困ることがたくさんあるので、いかにリセットするかを、いつも考えている。

“繋がろう“とかいう方向性でいくと、意図しないものまで拾ってしまうので、逆に私の場合は、いかに自分の領域を意識しておくか、という方に重きを置いている。そちらを意識していないと、無意識状態では、相手のエネルギーを取り込みすぎる可能性がある。

それから、“繋がろう“の前に、相手を見る。客観視というか、第三者視点がいつも必要に思っている。第三者視点というのは、まず自分の視点があり、(エンパスはここが手薄なことが多いので、まずは自分の視点に集中する必要があるが。)そして相手の視点がある。相手視点にはいつもエンパスは寄り添いやすいので、相手の視点はそんなに気にせず、普通にしていても、自然に汲み取っている。その上で、相手と自分の視点を客観視する、第三者視点をいつも持つようにすることで、相手との適切な距離が測れるようになる、と思う。

私はまだ、自分の視点を確認する、というところと、第三者視点の練習をしているところ。

とにかく、“繋がろう“よりも、“自分としっかり繋がり“、“識別し“(客観視)、頻繁に“リセットする“。

誰に会っても、必ず自分のエネルギーをクリアにして、自分の領域をはっきりさせておく。

これが、いわゆる“繋がる“ことよりも、私にとっては大事なこと。