季節は巡る。コロナで気付いた、私の周りの自然。
2020年、本当に不思議な年だ。
失ったものがたくさんあり、得たものもたくさんあり、根底から揺るがされる。
それでも、私の日常は続いている。少しずつ変形しながら。
でも、今日は素敵だと思える変化について綴りたい。
コロナの自粛期間から、散歩が日課になった。
家にずっといて、やることがないので、早朝も夕方も散歩をしていたのだけど、家の周りのいろんな自然があることに気づかされた。
3月から、ずっと断続的に散歩を続けていると、お気に入りのルートもいくつかできた。
美声のウグイスが一節聞かせてくれるルートをウグイスルート、そして、可愛いノラたちがたくさんいるルートをネコちゃんルート、そして、若い修行中のウグイスがいるルートが、ウグイス第2ルートだ。
私のお気に入りはウグイスルートだが、そこにはみかんの木がある。
3月には、白い可憐な花をつけ、ものすごく芳しい香りで楽しませてくれた。ハラハラと散る様子、地面に降り積もった花たちは、本当に美しかった。
そして、最近久しぶりに同じルートを歩くと、驚くほどたくさん、大きな実をつけていた。
みかんだと思っていたら、みかんより大きな柑橘だった。
ウグイスはいないが、(というか、鳴いていないだけなのかも)最近メジロを発見する。
春の若草を思わせる緑で、3羽ほどでさえずりながら、木々を移動している。
2020年より前に、鳥の声を聞き分けたり、鳥の種類を見分けたりすることはできなかった。
きっと同じサイクルで季節は巡っているけれど、足元を、身の回りをこんなにじっくりと味わってみたことはなかったし、いつも意識は外に外に向いていた。
それが、どこにも行けなくなり、やることも無くなった時に、家の周りを歩き回って、身近にある豊かな自然に気づき、当たり前のように、奇跡のように季節が巡っていることを初めて体感するなんて、どういうことだろう。
桜のアーチの小道を歩くと、人気がない時、ただパラパラと桜の葉が落ちる音がする。
柔らかな日差しの中を、次々と、一枚一枚葉が落ちていく。まるで時が止まったように感じる。
葉がアスファルトに落ちた時の音を、私は知らなかった。
秋になると、ジューンベリーが葉をおとす。私はジューンベリーの葉が好きだ。丸くて、黄色や、柿色や、レンガ色に紅葉して、落ちてもとても可愛い。
近所の苦手なおばあちゃんを最近見かけない。
家族によれば、多分施設に入られたのだろうと言う。
ずっと苦手で、一時は外に出ることすら怖いと思ったりもしたのに、いざいなくなると寂しいとは、どういうことだろう?
私は、嫌いな人を嫌がったり恐れたりすることすら、愛していたのか?
あの人さえいなければ、という想いも、あの人がいるからこそできるのかもしれない。
道を歩くお爺さんを見かける。
リュックを背負って、ジャケットを着て、足取りがリズムでいうと、タッタ、タッタみたいになっている。少し足が悪いのかもしれない。ジャケットの右側がよれて、リュックの肩掛け部分のところで皺がよってしまっている。
他の人よりゆっくりだけれど、一生懸命な足取りが伝わってくる。
私は、なんでかわからないけど涙が出た。
子育ての思い出。
最近、子どもが大きくなったので、昔のことをよく思い出す。
大きくなったと言っても、まだ2分の1成人式をしたばかりだから、まだまだ子どもなのかな?
それでも、最近、本当に手を離れてきたなぁと思う。
いつも心配していた登下校なども、気付くと学校に出発しているし、いっちょ前のOLさんみたいな顔で友達と話している。
話す内容は、ママと喧嘩したとか、まだまだ可愛い内容だけど。。。
おしゃべりしていても、若い友達と話しているみたいな気分になってくる。
または、歳の離れた妹?
最近の流行り(流行りという言葉自体が、古い感じがするが、今時の言い方がわからない。。)の曲をいろいろ教えてくれるが、解読できないタイトルだったりする。
歌詞なども、ミッドフォーティの私にすると、“ちょっとあなた考えすぎじゃない?“とかおばちゃんみたいなコメントをしたくなる内容。
寂しい、んだね。。。??みたいな、解釈しか浮かんでこないところが、若さゆえの物思いなどをとうに忘れ去った自分が重ねた年月を感じさせる。
さらに自らの重ねた年月を感じさせるのは、公園で子どもと遊んでいると、とってもちっちゃい子たちがわちゃわちゃ走ってきて、“あらかわい〜“、などと見ていると、その子たちを追いかけるパパたちすらも、“あらかわい〜“と思える年齢なこと。
ちょっと前まで、私の同僚として一緒に子育てしていたはずの集団が、すでに一回り年下になり、可愛いと愛でられる年齢にまで下がっているとは。。。軽くショック。
だって、VERYからも知らないうちに読者層じゃないって追い出されちゃってるしね。
自然とSTORYかMARISOLあたりに移行してくださいね、、って感じだもんね。
仕方ないか。
最近、クリムトの“女の三世代“の絵が身にしみる。
つい最近まで、右半分の赤子を抱えて幸せに満たされた女性に感情移入していた。
隣の老婆など、ただの背景のように見過ごしていたのだが。。。
それが最近、この老婆の嘆きが身に沁みる。
失ったものへの、嘆き。もう戻らぬものへの。。。
2020年10月。ここまできた自分をねぎらい、そしてこの先へ進む。
今年ももう終わりに近づいてきた。
今年は、コロナに始まりコロナに終わるような、激動の一年だった。
誰にとっても、多かれ少なかれ、何かの影響があったはず。
我が家にとっても、直接・間接の影響はあった。
子どもの休校、塾や習い事までもお休み(緊急事態により、強制自粛)、夫のテレワーク化と、それの恒久化。
私個人にとってみれば、PTA関連はほぼ壊滅し、逆に効率化と、本当に必要なものが見えた点も多々。趣味のヨガがオンライン化し、これも逆にスタジオに行かずに済むので、非常に便利。
以上は、外側での状況。
コロナの影響といえば、外側で起きた事象に目が向きがちだけれど、2020年の終わりに近づくにつれ、内面での影響をより大きく感じる。
はっきりとは、これと言えないのだけれど、自粛や緊急事態によって緊張状態にあった時よりも、何かもっと大きな底面での変化を感じる。
目には見えないのだけれど、大きなうねりというか、例えるなら、地下のマグマや、海面下で、不可逆的な、決定的な変化が起きているような感覚がある。
それは、今までの、目に見えてきたこと、例えば、子どもの休校を乗り切るとか、夫のテレワークに悲喜こもごもというようなレベルではなくて、もっと大きな、何か根本的な変化。
今までは、『コロナ』という脅威にいかに立ち向かうか、というある意味限定された状況だったけれど、ここからは、『コロナ』をきっかけに始まった、後戻りのできない根本的な変化に入っていくフェーズという感じがする。
それは、個人も社会も。
コロナによって、自分の中の本音、さらにその奥に抑圧されていた本当の思い、気持ち、本心、、、場合によっては、本人ですら気付いていなかったものや、把握できていなかったもの、抑圧されすぎていたもの、、、などすべてのパンドラの箱が開いた。
今後、これまで隠せたものも、抑圧できたものも、もう抑えられないし、とどめておけない。
流れは、本心、正直、あるがままの自分以外のものすべてを押し流していく。
いらないものは、すべて怒涛の流れに飲み込まれて、本来の自分だけが、軽くなって浮かび上がってくる、そんなイメージ。
大きな変化の中にある2020年10月、現時点、ここまで来るのにも、すべての人が、いろいろな変化、緊張、思い、様々な感情の中にあったはず。
知らない間に、疲れ、緊張していても、おかしくないし、疲れや緊張を持たなかった人はいないくらいだと思う。
年末にかけては、少しだけでもゆっくりする時間を持って、自分のことを大切にできる時間をできるだけとっていこうと思う。
そんな大きなことじゃなくても、私にとっては、好きな紅茶を淹れて、窓辺でゆっくり味わいながら、庭の土の香りを感じたり、女子目線の小説を読んだり、外の緑を見ながらオンラインヨガをしたり、ボディクリームを塗ってみたり、ただただ深呼吸したり、散歩で近所の緑道と神社とうっそうとした林みたいな古民家の周りを歩いたり、、、そんなことが幸せ。
だけど、それだけじゃなくて、2020年、本当に本当にがんばったね。と、あえて自分に声をかけたい。本当は、自分にも、そしてみんなにも(すべての人に)、そうやって声をかけたい。
そうしないと、知らないうちに頑張ってしまう。変化の中で緊張してしまう。
休校中は、子どもの勉強が心配だった。テレビのニュースになったような出来事が、すごい近所で起きていたこともあった。テレワークで、みんなが家にいる状況も、会話が増えて嬉しいのと、パーソナルスペースがうまく作れないストレスと、ごっちゃになってた。
これまで大好きだった場所にも簡単に行けないし(カフェや美術館など)、行ったとしても、アラート状態で行くから、やっぱりどこか緊張している。
新しい日常。
気づかないうちに、新しい世界へと、みんなが踏み出している。
それは、コロナ対応の生活様式だけを指すんじゃない。
気づいていること・気づいていないこと、その両方の領域で、新しい日常が始まっているし、日々創り出し始めている。
2020年の最後の3ヶ月は、自分に優しく、ここまでのがんばりをいたわり、癒し、励まし、そして、自分の一番深い声を大切に聴きながら、進んでいきたい。
物哀しい秋の気配、虫の音(カネタタキ)、読書三昧(女子ワールドの本たち)
文章というのは、いざ書こうとすると、えっと、なんだっけ。と、言いたいことが出てこない。
ずっと話したかった人と久しぶりに会ったのに、いざ面と向かうと、言いたい言葉も話したいことも出てこない。そんな感じによく似ている。
本格的な秋の気配。
天は高く、肥えた馬を見かけたりはしないが、いつのまにかセミが舞台から消え去り、気づけば秋の虫が耳を慰めてくれる。
この前、家に侵入した、なんともかわいい小型蟋蟀のような、見たこともない虫。
調べてみたら、カネタタキというそうだ。
いつもは樹上にいて、人目につかないらしいが、何故わざわざ我が家に来てくれたのか?
おかげで、この可愛らしい金叩きという虫の奏でる、キッキッという、金属を擦るような音を聞き分けられるようになった。
意外と昼間も鳴いている。よくよく聞けば、一匹が鳴くと、少し離れたところで、それに呼応するようにもう一匹が鳴いていて、まるで会話しているよう。
秋は、なんとも寂しい季節でもある。
なぜ寂しさを感じるのか?
なんとなく、盛りを過ぎた、更年期に差し掛かる自分と重ね合わせて、いろいろ切なくなってくる。
日差しは弱まり、日も短くなる。生命力旺盛なセミの鳴き声に埋め尽くされ、ジリジリと暑い陽射しに炒られていたのが、なんだかすっきりとした風が吹き、それでいて気分が鬱々としてくる。日照量低下とともに、セロトニンが減少か?
そんなにまだ日光量落ちてませんけど!?
秋分でこれだったら、冬とか鬱々じゃないですか!?
と自分に喝を入れる気力もない。
なんだか物哀しいけれど、この物哀しさを逆手にとって、家に篭って読書三昧、と決めてしまうのもいいかもしれない。
お気に入りの紅茶にちょっとしたおしゃれな茶菓子、、、クッキーみたいなものがあれば、それで自分のご機嫌も少しは取れそうだ。
最近のお気に入りは、もっぱら女子目線の小説。
綿矢りささんの意識のリボン。
初めて彼女の小説を読んだけれど、岩盤浴に行ったのに、結局、周りの気配にされる気なくとも影響されて、結果リラックスできない話など、こういうこと思ってたのって、私だけじゃないんだ!!と、目からウロコ。
ヨガスタジオも、マッサージも、ジムもプールも、リラックスできるはずの場所で、結果周りが気になって、周りにいる人のエネルギーに影響されてしまう。それで余計にイライラして帰ってきたなんて、とってもよくあること。
だから、コロナ後の、オンラインの世界は「快適」そのもの。
ヨガならヨガそのものが楽しめる。周りの空気も関係ないし、変な比較も入らない。
オンラインだと、余計なエネルギーはもらわない。それは、相手が画面に写っていないからなのかも。
でも、ここまで「無駄」を「排除」してしまう世界も、マイナスもないけどプラスもない、のかもしれない、、、?と、超内向的、エンパス気質の私でも、ふと疑問に思い出す今日この頃。
オンラインとオフライン。
外向的な人基準で作られた世の中は、私からすれば、会いすぎ、話しすぎ、近すぎ、集まりすぎ。
いまだに、ラインもSNSも、面倒100実利1、の評価は変わらない。
だけど、これまであった世界が、ここまで大きくオフラインまたは断絶に傾くと、うーん、もしかして、会うことにも意味があったのかも、しれない?とまで思えてくる。
超内向的、エンパス気質の私ですらそう感じるということは、もっと平均に近い人にとっては、かなりきついんじゃないかなぁ。ふと会ってちょっとした話をする機会もなくなっちゃうんだもんね。。。と、共感を覚えたりする。
そして、女子ワールド2冊目は、「あのこは貴族」山内マリコさん。
一見、立場の正反対な女子がキャットファイトをする物語かと思いきや、女の義理を通す、カッコいいお話。女の分断を煽るのは男って、真実だと思うな。
かのイギリスも大得意の、「分断統治」。
これを女子にやってるだけじゃないの?
労働力として搾取し、いうこと聞く票田として洗脳し、、、とか言い出すと、フェミニストみたいになっちゃう?
でも、戦後の政治家は、女性が票を持ったときに考えたんじゃないかな。分断統治、票田としての洗脳。だって、ものすごく熱心に集票活動してくれる女性たち、今もいるじゃない?まあ、ある年齢層から上だけかもしれないけどね。。。
それから、こちらの小説は映画化されるとのこと。水原希子さんが、華子の方が、お嬢様ならお似合いなんじゃ?と思ったけど、お話を読んで、華子の性格がわかると、納得でした。
ただ、幸一郎は、私の中で、最初から最後まで、松坂桃李さんでした。薄情そうなところとか、上手に演じてくれそうだけどな。。。
この後に控えているのは、
彼女たちの部屋(レティシア・コロンバニ)、 本屋さんのダイアナ(柚木麻子)
どちらから読もうかな。
その前に、ご機嫌取りクッキーを準備しなくては。
紅茶も冷めてしまいそう。あ、こちらの本も、読み忘れてた。。。
ステイホーム週間の読書案内:コロナウィルスが問いかける生と死。世界は昨日と同じ明日が続く安穏な場所ではもうない。死を突きつけられた主人公の選択と、豊かな自然描写が今を生きるヒントをくれる「青い城」
タイトルが長くなってしまいました。
これからおよそ2週間の「ステイホーム週間」に突入します。
突然できた時間をどうしようか考えている方もいらっしゃるかもしれませんね。
コロナウィルス以前、世界はまるで「昨日と同じ明日がずっと続く」ような場所だったかもしれません。
今、私たちはそれが幻想にしか過ぎなかったことをまざまざと体験しています。
第二次世界大戦以降、昭和の発展期と、終わってみれば空虚な泡のように過ぎ去った平成時代を通して、私たちはどこかで、世間というあやふやな場所で作られた基準を通して、既視感を持って未来を予測することに慣れてしまいました。
今、コロナウィルスがもたらしたものによって、こんなにも多くの人が、「生と死」を身近にはっきりとした感触を持って感じたことはなかったかもしれません。
「青い城」
モンゴメリによるこの恋愛小説は、強烈な同調圧力の中で、自らを抑圧し、ただ周囲の期待に応えてきた、取り柄のない(とその時点では信じている)女性が、あと1年の命という宣告を突きつけらるところから始まります。
およそ100年前に書かれたにもかかわらず、まるで現代の毒母に通じる母親。
日本社会に残る同調圧力を想起させる、当時の宗教・階級圧力、社会規範。
最初の50ページ程度は、あまりにもそういった舞台装置がリアルすぎて、読むのが辛くなるほどですが、それも読み進めば、影が濃いほど、生きる喜びと光が鮮やかに目に映るのだと納得です。
私たちも今、数ヶ月前には信じられなかったような方法で、「どう生きるか?」「本当はどう生きたいのか?」突きつけられているのかもしれません。
主人公が、他者を喜ばせることから、自分を喜ばせることへと急シフトを決断し、そして実行し始める描写は、私たちが自分を喜ばせること、自分を生きることを選ぶ後押しとなってくれるかもしれません。
今、コロナウィルスのために人間の活動が制限され、周囲自然は逆にその力を生き生きと取り戻しているように感じます。中盤から終盤にかけての、「ミスタウィスの自然」描写の美しいこと!その描写を味わいながら、ぜひ周囲の自然にも目を向け、初夏の彩りを愛で、鳥の声に耳を傾けてみてはいかがでしょう?
本ラブ。国語便覧、新潮社文庫、サガン、夏草冬濤
私はずっと、本が好きだった。
書を読むことも好きだけれど、本そのものも好きだった。特にお気に入りは新潮社で、新潮文庫の紙の質感、上がガタガタしてるところ、(文庫本の上の部分、ページが揃ってないでしょう?)、字体、クラシックな栞の紐、背表紙の、作家ごとに異なる色。特にサガンのパッションピンクに、翻訳者の朝吹登水子さん。朝吹登水子、という名前だけでも、漢字の並びの美しいこと。他人の姓を羨ましいと思ったことはないけれど、朝吹だけは別。
だから、世襲や二世に反発しがちな(庶民の)私だけど、朝吹真理子さんだけは、芥川賞でもなんでもお取りください。そりゃそうでしょう。と、名を見ただけでも納得。
今考えると、朝吹登水子さんの、流れるような翻訳そのものが好きだったのね、と思う。フランソワーズ・サガンの紡ぐ、恋愛の物語を、恋に恋する文学少女だった私は、実体験もなく、ただ憧れて読み貪っていたけれど、そこに朝吹登水子さんの、まさに水の流れるような空気感が重なって、それで、彼女の名前そのものにも憧れていたんだな。
高校生の時は、国語便覧を国語の時間に読み込むのが最高に楽しかった。
国語便覧がすごく好きだった。古典から現代まで、いろんな資料が載っていて、隅から隅まで読み込んだ。太宰治が、芥川賞選考委員に宛てた手紙なんかも載っていて、『どうか私を選んでください。選んでくれないと死んじゃいます』みたいなのを読んで、「なんて女々しいやつなんだ・・・。」と絶句していた。
高校時代、もう一つ好きだったのが、井上靖。多分、中学校の国語の教科書に、井上靖のしろばんばが載っていたんだと思う。国語の教科書は、私にとっては美味しいメインだったと思う。なんせ何度も読み込んでいた。しろばんばでは、まだ洪作は小学生だった。その続きがあると知って、洪作少年の青春時代に興味が湧いた。特に、作者の地元に住んでいたので、地名や情景など馴染みがあった。
夏草冬濤。
しろばんばは純粋に面白かったのだと思う。続きが読みたくなるくらい、おもしろかったんだ。
当時の私の憧れの人は、金井。
狩野川のほとりで、小説など読んでしまう文学青年、いやまだ文学少年かな。アラフォーから見ると、このくらいの年齢が青年か少年かわからないよ・・・。
でも当時高校生の私にとって、憧れは、SMAPとかじゃなく、金井。
高校時代、一人だけこれ共感してくれた子がいたな。金井かっこいいよね、って。