知らない間に影響していること
緊急事態宣言。これが出た当初は、あんまり気にしていない自分がいた。(今回の分。)
それでも、最近の自分の行動には、明らかに影響している。
明らかに外出頻度は減っているし、カフェやお店にいく頻度も激減。
今、この医療が逼迫した状況で、万が一にもリスクのあるような行動をするくらいなら、今必要ないことをわざわざすることはないかな、と思っている。
でも、その影響が、数週間経って、メンタル面にじわじわ出てきているような気がする。
お気に入りのカフェ(って言ってもスタバだけど)も、美術館も、雑貨屋さんを巡ったりするようなことも、ちょっとしたお店で食べるランチも、全部、家で代替できる。
髪を切るのも、専用ハサミでやってみると、意外とうまくできちゃうし、温泉の素もかなりリアルなものまで売っている。
元々、内向的で人と会うのが苦行だったタイプで、友人もたくさんいるわけじゃない。その友人と会うのすら、会った後疲れちゃったりする。
と、いうかね。ちょっと壁を作っているのかな、とか本音では、“友人”じゃなく、“知り合い“なだけだからかな、と思ったりするけど、そこは今はいいとしよう。
そんな私でも、やっぱりこの、知らない間に引きこもることになっている生活、というのって、数週間たった頃に、じわじわと気持ちの揺らぎがやってくるように感じる。
こういう、目に見えない、はっきりしない、“なんとなく、知らない間に“っていうようなものの方が、意外としんどかったりするのかも。
というより、ただ単に、セロトニンが足りていないだけなのかも、とも思ったりする。
寒くて、朝の散歩ができてないからね…。
やっぱり、絶対必須、日光!!
最近、そんな私が考えること。
それは、“私は誰なのか。“ということ。
というか、人って、“私“を、何かと同一視していると思うんだけれど・・・、よくたとえば、〇〇大卒、とか、キャリア女性、とか、どんな人の妻である、とか、三児の母、とか。
けれど、それらはいわば、後付けであって、“その人“そのものでは全くない。
だとしたら、“私“は誰なのか?何なのか?
いっちばん大元の、“私“自体を、そのまま受け止めて、そのままで愛することってできるのかな?できているかな?と、時々考える。
なぜかといえば、私が長らく、〇〇である自分、という形で、自分を“証明“しようとして生きてきたから。
〇〇が獲得できた時は、鼻高々で、逆に求めたものが得られないと、嫉妬や欠乏感でブラックオーラ全開になったり、いろんな人間修行してきたような気がする。
だけど、実際、全部の〇〇を取り去って、ただの“私“を、私自身は愛せているのかな?と、そのままの、このままの私でいい、と思えているのかな?と、ふとした時に考えている。
でもね、そういう思考はいらないのかも。
散歩している瞬間に見つける、朝陽が靄に柔らかくきらめく瞬間や、優しい紫の雲が夕日に輝く瞬間。そういう我を忘れた瞬間に、本当の“私“という存在を再確認しているのかな、と感じたりする。
“私“というものにこだわるあまりに、本当の“私“を忘れてしまっているのじゃないかと思わされる。