日々の雑記帳

日々考えたことのあれこれ、ピアノ、読書、美術館めぐりなど。

家事が私にとってのヨガ

ヨガが好きで、かれこれ15年はやっているような気がする。

ヨガ=つなぐという意味らしい。

この世の雑事と、自分の中の変わらない場所(!)をつなぐもの、というような意味らしい。

全くうまく説明できないけれど、地球上で暮らしていると、ついつい毎日の日常に没してしまう。あの近所の人がどうとか、このニュースがどうとか、あの職場の人がどうとか、子供の勉強がとか、実家の母がとか、自分のお腹のお肉が気になるとか、新しい新作コスメに興味があるとか、なんだかんだ。雑念だらけだ。

さらに意識は過去にも未来にも飛んでいく。

小学校の時私をいじめた登校班の5年生が黄色い帽子で叩いてきたとか、昔の職場の上司がとんでもないパワハラ上司だったとか、大学の時付き合った彼とは友達でいればよかったとか、はたまた、私はこのままここで朽ちていくのかな、とかもっと田舎に住みたいなとか、直近コロナのニュースを聞いてしまったが故に、2秒前にはなかった恐怖が突然湧いてきたりとか。

そういう毎日の日常の中で、心をいかに“自分の中の変わらない場所“に繋ぎ止めておくか。

特に去年の緊急事態宣言時は、今と違って心が乱れまくった。

家にずっといて、外に出られないし、散歩はできるけれど、近場の公園には逆に人が多い。

ランナーの呼気にも気をつけろ、とか考えても見なかった方向からの情報もいろいろ入ってきて、アルコール消毒しすぎで指はカサカサ、子どもの勉強がめちゃくちゃになっているとか、小耳に挟んだテレビのニュースが実は三軒両隣くらいの近隣で起きていたとか、いろいろノミの心臓には悪い環境だった。

そんな私を去年救ってくれたのは、なんと家事。

私にとって、家事は昔から鬼門。なんでかわからないけど本当に嫌いだった。

掃除と洗濯はそれでもそこまで嫌いじゃない。効率化できるし、時短もできる。

業務を簡略化、効率化することが好きで得意なので、そこが活かせる。

だけど、料理はなぜか、女性らしさとか女の仕事とか、そういうジェンダーロールと結び付けられたイメージを強烈に持ちすぎていて、昔から毛嫌いしていた。

例えば、料理に時短と効率化を持ち込もうとすると、そのこと自体が罪悪感を生み出すような、昭和の呪縛があった。

下味?だし?焼いてから煮る?わざわざ調味料を前もって加熱!?

そんな工程がいちいち気にさわり、苛立ち、それでいて、その工程をすっ飛ばし適当な料理を作る自分が、何か欠落したダメ人間みたいな、妙で強烈な罪悪感を感じさせるが故に、料理が嫌いだった。

学生時代にモテていたのは、料理好きな巨乳女子。どっちも当てはまらない自分にとって、いくら勉強がんばっても意味ないんだな、みたいな。学力を評価されて入った大学でも、女子は料理と巨乳が評価されるのか、という男性社会の辛辣な現実を突きつけられた。

それに、後々気付くのだけど、当時の私は自分の中の女性性を全否定していたので、女性らしさや、女性としての楽しみ、そう言ったことも全部自分に潜在意識で禁じていて、そういうことを、例えば、メイクとかオシャレとか、男子に奢ってもらう、助けてもらう、自分より優れた男子に保護してもらう、守ってもらう、そんなこと全般を、毛嫌いして、バカにしていた。

それは、男性性優位な家系に生まれた初孫の女子だったからだと思う。

女性なのに、女性を否定して、男性の中で男性基準で認めてもらおう、とずっとがんばっていた自分。それがある時点で衝突点を迎えて、もうこれ以上この自己矛盾は続けていけない、だって私は本来、繊細で感受性が強くて、なんならエンパスでHSPで、直観的思考に優れた、とっても女性性が強い存在なんだから、ということに、力技で気付かされることになるのは、もう少し後。

私が料理に恨みにも似た重い思いを抱えていた去年まで。

とは言っても、少しずつ昭和の呪縛からは解き放たれつつあったものの、それが昇華されて、料理が私のヨガにまでなったのは、去年の緊急事態宣言のおかげと言ってもいいかもしれない。

知らず知らずのうちに、日々のニュース、積み上がる数字、いろいろな識者が手探りで集め公開してくれる情報、社会全体の不安、そんなものが自分の潜在意識になだれ込んできて、それでいて同時に、ふと我に帰ったような、静かで落ち着いた、例えば欅の木々や四十雀たちが過ごしているような、人間とは別個の自然のリズムも同時に感じていた。

そんな、自分の内面を深く探り、見つめることへと誘うような、澄んで落ち着いた空気のなかで、自分の心の湖面を波立たさせる不安を宥めながら過ごしている時、隣の人が大量のふきをくれた。

料理が苦手で毛嫌いする私も、かつて母の強い勧めにより、ベターホームに通ったことがある。(曰く、“女性は料理ができると自信が持てる。“)そこでふきの下処理をさせられ、なんてめんどくさい野菜なんだとそんな記憶しかない、ふき。

それでも、せっかく貰ったものをだめにするのも忍びなく、またやることがなかったために、あれだけめんどくさかったふきの処理ですら、なんだか楽しいことのように思えてきた。

そして、実際10数本のフキをひたすら下処理して、筋をとるような作業をしている、私の頭の中は、凪だった。不安の風は止まり、心は安らいで、ただふきの半透明の緑色を眺めて、ただひたすら手指を動かすだけだった。

まさに、『心の作用が止滅した瞬間』だった。

(2 心の作用を止滅することが、ヨーガである。 「インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ」より)

あ、家事が私を助けてくれる。と思った瞬間。

家事は、外にどんな風が吹こうとも、必ず家の中にあり、そして私がやるべきこと。

やらなくてもいいけれど、ただそれを日常の手順に組み込み、ただ手を動かしていけば、そのうちに心に凪が訪れる。

そこに集中するうちに、外の嵐は私の心を乱せなくなる。

そして、一定のリズムの中にいるうちに、私は“自然のリズム“と共振している。

欅が、どんな風にも立っているように。

四十雀が、どんな嵐にも対応できるように。

そんな自然の工夫や強さ、それが私にとっての家事なんだ、と悟りのようにひらめいた瞬間。

それ以来、料理も掃除も洗濯も、私の心強い相棒と化している。

もちろん時短・簡略化も楽しみなので、昨年後半、床拭きロボットが家にやってきた。

適度に業務遂行能力が微妙なところが、非常に人間らしい。

気付くと隙間に挟まったり、絨毯の下で蠢いていたり、一体あなたは実は何者?と思うくらい、人間寄り。

また当然、料理も下味を極めたり、調味料を煮切ったりしていない。

あくまで簡略、適当を目指しながらも、思い立った料理は自分流で作れる楽しみは味わえるようになっている。

そして、自分の中に変わらぬ日常が根付いたからか、去年のように、色々なことに惑わされづらい自分がいる。

とはいえ、ノミの心臓であることは変わりないので、すぐにビクビクモードになって怖がったりしてしまうが、それも自分。強がっていた昔よりはずっといいのかな、と自分を受け入れたりしている。