日々の雑記帳

日々考えたことのあれこれ、ピアノ、読書、美術館めぐりなど。

諦めてからが楽

諦めてからが楽。

あるひとのエッセイを読んでいたら、20、30、40代は悩みが多くて、その後はそういうことに悩まなくていいから楽だって書いてあった。

本当にその通り。

若い時に戻りたいって思うけれど、一方で、また若くなったら、あれこれ悩まないといけないから、めんどくさいな、と思う。

いろんな分岐点があって、結婚、仕事、出産、いろんなことにバランスをとりながら、そしてバランスを取れなかったりしながら進まないといけない。

そのバランスの取れなさに悩んだり、選んだ道、こっちにしかいけなかった道のことについても、あれこれ思い悩まないといけない。

もちろん、思い悩まなければいいし、すぐ割り切れるなら、その方がずっといい。

でも、人生の大ごとだったりするから、そう簡単に割り切れなかったりする。

でも、散々悩んで、悩み疲れるのと、時間の経過や、実際問題、そんな悩んだりすることに使える体力やエネルギーなんてないな、という感じになってきて、逆に楽になってくる。

割り切るしかないし、なるようにしかならない、と思えてくると、本当に楽。

例えば、今持っている知恵や経験を全部持ったままで、若い時に戻れるならば・・・。

でも、そんなことしたら、経験や知恵があるだけに、あんな無謀なことに突進していかなかったんじゃないか?と思うし、そうすると、その結果の経験も無くなっちゃう。

それに、色々大変だった。新人の時は下働きとか、大変だし、やっぱり今になって、ある程度歳を重ねていることで、それが時間の重なりにもなって、実ったことだってある。

そういうのを、全部またもう一度、と言われても、無理かも。

そう考えると、この年齢を積み重ねるということで、とても救われたり、楽になってる部分があるんだな、と深く実感する。

 

三寒四温 春の足音

三寒四温とはよく言ったもので。

本当に、毎日毎日、春→冬→春→冬とね。そうするうちにも、少しずつ日が緩んで、強くなり、眩しくなり、春の芽吹きがあちらこちらに。

紅梅、白木蓮

ヒヤシンスにチューリップ、水仙が真っ直ぐに。まだ見ぬ可愛らしい花を想って、春の嬉しさが私の心にも。

セロトニンが足りない冬。鬱々とした冬。どうしてかわからないけど、日光量低下の影響を受けて、なんでもかんでも暗く考えがちになってしまう冬。

そんな冬を抜けて、今春の日差しの中、私の心にも少し歓びが戻って来たような。

それとも、10年も長い間悩んで来たことも、やっと執着から解放されて、それが歓びの息吹を感じさせているのかも。

どうして、一つのことを断ち切るのに、10年もかかるんだろう、と不思議に思えてくる。

とは言え、それも、心が離れて自由になったからこそ、そう思えるのであって、私にとっては時間の経過や、その中での悩みが必要だったのかな。。。

願わくば、もう少しその期間が短かったらよかったけれど、それだけの時間が必要だったのかな。

今は、心に芽生えた歓びの芽を、見失わないようにただいたい。

このままの自分でいいんだ、と思えるのに、こんなに長くかかったけれど。

絡まった心の糸をほどくのに、こんなにも長い時間が必要だったけれど。

とはいえ、長いと言っても、それは私の視点から見れば。

宇宙の時の流れから見れば、それはほんの一瞬で。

あまりにも、自分の視点の枠に囚われすぎるとき、いつも引きの視点、俯瞰の視点を忘れないようにしたい。

そして、自分に捉われすぎるよりも、ほんの小さなこと、今の私にできることを、他の人のためにできる人でありたい。

感謝を忘れて、恨言ばかりになるよりも、与えられたもの、恵まれたものに感謝できる人でありたい。

🌷🌷🌷

 

 

 

 

 

知らない間に影響していること

緊急事態宣言。これが出た当初は、あんまり気にしていない自分がいた。(今回の分。)

それでも、最近の自分の行動には、明らかに影響している。

明らかに外出頻度は減っているし、カフェやお店にいく頻度も激減。

今、この医療が逼迫した状況で、万が一にもリスクのあるような行動をするくらいなら、今必要ないことをわざわざすることはないかな、と思っている。

でも、その影響が、数週間経って、メンタル面にじわじわ出てきているような気がする。

お気に入りのカフェ(って言ってもスタバだけど)も、美術館も、雑貨屋さんを巡ったりするようなことも、ちょっとしたお店で食べるランチも、全部、家で代替できる。

髪を切るのも、専用ハサミでやってみると、意外とうまくできちゃうし、温泉の素もかなりリアルなものまで売っている。

元々、内向的で人と会うのが苦行だったタイプで、友人もたくさんいるわけじゃない。その友人と会うのすら、会った後疲れちゃったりする。

と、いうかね。ちょっと壁を作っているのかな、とか本音では、“友人”じゃなく、“知り合い“なだけだからかな、と思ったりするけど、そこは今はいいとしよう。

 

そんな私でも、やっぱりこの、知らない間に引きこもることになっている生活、というのって、数週間たった頃に、じわじわと気持ちの揺らぎがやってくるように感じる。

 

こういう、目に見えない、はっきりしない、“なんとなく、知らない間に“っていうようなものの方が、意外としんどかったりするのかも。

 

というより、ただ単に、セロトニンが足りていないだけなのかも、とも思ったりする。

寒くて、朝の散歩ができてないからね…。

やっぱり、絶対必須、日光!!

 

最近、そんな私が考えること。

それは、“私は誰なのか。“ということ。

というか、人って、“私“を、何かと同一視していると思うんだけれど・・・、よくたとえば、〇〇大卒、とか、キャリア女性、とか、どんな人の妻である、とか、三児の母、とか。

 

けれど、それらはいわば、後付けであって、“その人“そのものでは全くない。

だとしたら、“私“は誰なのか?何なのか?

いっちばん大元の、“私“自体を、そのまま受け止めて、そのままで愛することってできるのかな?できているかな?と、時々考える。

なぜかといえば、私が長らく、〇〇である自分、という形で、自分を“証明“しようとして生きてきたから。

〇〇が獲得できた時は、鼻高々で、逆に求めたものが得られないと、嫉妬や欠乏感でブラックオーラ全開になったり、いろんな人間修行してきたような気がする。

だけど、実際、全部の〇〇を取り去って、ただの“私“を、私自身は愛せているのかな?と、そのままの、このままの私でいい、と思えているのかな?と、ふとした時に考えている。

でもね、そういう思考はいらないのかも。

散歩している瞬間に見つける、朝陽が靄に柔らかくきらめく瞬間や、優しい紫の雲が夕日に輝く瞬間。そういう我を忘れた瞬間に、本当の“私“という存在を再確認しているのかな、と感じたりする。

“私“というものにこだわるあまりに、本当の“私“を忘れてしまっているのじゃないかと思わされる。

 

 

 

家事が私にとってのヨガ

ヨガが好きで、かれこれ15年はやっているような気がする。

ヨガ=つなぐという意味らしい。

この世の雑事と、自分の中の変わらない場所(!)をつなぐもの、というような意味らしい。

全くうまく説明できないけれど、地球上で暮らしていると、ついつい毎日の日常に没してしまう。あの近所の人がどうとか、このニュースがどうとか、あの職場の人がどうとか、子供の勉強がとか、実家の母がとか、自分のお腹のお肉が気になるとか、新しい新作コスメに興味があるとか、なんだかんだ。雑念だらけだ。

さらに意識は過去にも未来にも飛んでいく。

小学校の時私をいじめた登校班の5年生が黄色い帽子で叩いてきたとか、昔の職場の上司がとんでもないパワハラ上司だったとか、大学の時付き合った彼とは友達でいればよかったとか、はたまた、私はこのままここで朽ちていくのかな、とかもっと田舎に住みたいなとか、直近コロナのニュースを聞いてしまったが故に、2秒前にはなかった恐怖が突然湧いてきたりとか。

そういう毎日の日常の中で、心をいかに“自分の中の変わらない場所“に繋ぎ止めておくか。

特に去年の緊急事態宣言時は、今と違って心が乱れまくった。

家にずっといて、外に出られないし、散歩はできるけれど、近場の公園には逆に人が多い。

ランナーの呼気にも気をつけろ、とか考えても見なかった方向からの情報もいろいろ入ってきて、アルコール消毒しすぎで指はカサカサ、子どもの勉強がめちゃくちゃになっているとか、小耳に挟んだテレビのニュースが実は三軒両隣くらいの近隣で起きていたとか、いろいろノミの心臓には悪い環境だった。

そんな私を去年救ってくれたのは、なんと家事。

私にとって、家事は昔から鬼門。なんでかわからないけど本当に嫌いだった。

掃除と洗濯はそれでもそこまで嫌いじゃない。効率化できるし、時短もできる。

業務を簡略化、効率化することが好きで得意なので、そこが活かせる。

だけど、料理はなぜか、女性らしさとか女の仕事とか、そういうジェンダーロールと結び付けられたイメージを強烈に持ちすぎていて、昔から毛嫌いしていた。

例えば、料理に時短と効率化を持ち込もうとすると、そのこと自体が罪悪感を生み出すような、昭和の呪縛があった。

下味?だし?焼いてから煮る?わざわざ調味料を前もって加熱!?

そんな工程がいちいち気にさわり、苛立ち、それでいて、その工程をすっ飛ばし適当な料理を作る自分が、何か欠落したダメ人間みたいな、妙で強烈な罪悪感を感じさせるが故に、料理が嫌いだった。

学生時代にモテていたのは、料理好きな巨乳女子。どっちも当てはまらない自分にとって、いくら勉強がんばっても意味ないんだな、みたいな。学力を評価されて入った大学でも、女子は料理と巨乳が評価されるのか、という男性社会の辛辣な現実を突きつけられた。

それに、後々気付くのだけど、当時の私は自分の中の女性性を全否定していたので、女性らしさや、女性としての楽しみ、そう言ったことも全部自分に潜在意識で禁じていて、そういうことを、例えば、メイクとかオシャレとか、男子に奢ってもらう、助けてもらう、自分より優れた男子に保護してもらう、守ってもらう、そんなこと全般を、毛嫌いして、バカにしていた。

それは、男性性優位な家系に生まれた初孫の女子だったからだと思う。

女性なのに、女性を否定して、男性の中で男性基準で認めてもらおう、とずっとがんばっていた自分。それがある時点で衝突点を迎えて、もうこれ以上この自己矛盾は続けていけない、だって私は本来、繊細で感受性が強くて、なんならエンパスでHSPで、直観的思考に優れた、とっても女性性が強い存在なんだから、ということに、力技で気付かされることになるのは、もう少し後。

私が料理に恨みにも似た重い思いを抱えていた去年まで。

とは言っても、少しずつ昭和の呪縛からは解き放たれつつあったものの、それが昇華されて、料理が私のヨガにまでなったのは、去年の緊急事態宣言のおかげと言ってもいいかもしれない。

知らず知らずのうちに、日々のニュース、積み上がる数字、いろいろな識者が手探りで集め公開してくれる情報、社会全体の不安、そんなものが自分の潜在意識になだれ込んできて、それでいて同時に、ふと我に帰ったような、静かで落ち着いた、例えば欅の木々や四十雀たちが過ごしているような、人間とは別個の自然のリズムも同時に感じていた。

そんな、自分の内面を深く探り、見つめることへと誘うような、澄んで落ち着いた空気のなかで、自分の心の湖面を波立たさせる不安を宥めながら過ごしている時、隣の人が大量のふきをくれた。

料理が苦手で毛嫌いする私も、かつて母の強い勧めにより、ベターホームに通ったことがある。(曰く、“女性は料理ができると自信が持てる。“)そこでふきの下処理をさせられ、なんてめんどくさい野菜なんだとそんな記憶しかない、ふき。

それでも、せっかく貰ったものをだめにするのも忍びなく、またやることがなかったために、あれだけめんどくさかったふきの処理ですら、なんだか楽しいことのように思えてきた。

そして、実際10数本のフキをひたすら下処理して、筋をとるような作業をしている、私の頭の中は、凪だった。不安の風は止まり、心は安らいで、ただふきの半透明の緑色を眺めて、ただひたすら手指を動かすだけだった。

まさに、『心の作用が止滅した瞬間』だった。

(2 心の作用を止滅することが、ヨーガである。 「インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ」より)

あ、家事が私を助けてくれる。と思った瞬間。

家事は、外にどんな風が吹こうとも、必ず家の中にあり、そして私がやるべきこと。

やらなくてもいいけれど、ただそれを日常の手順に組み込み、ただ手を動かしていけば、そのうちに心に凪が訪れる。

そこに集中するうちに、外の嵐は私の心を乱せなくなる。

そして、一定のリズムの中にいるうちに、私は“自然のリズム“と共振している。

欅が、どんな風にも立っているように。

四十雀が、どんな嵐にも対応できるように。

そんな自然の工夫や強さ、それが私にとっての家事なんだ、と悟りのようにひらめいた瞬間。

それ以来、料理も掃除も洗濯も、私の心強い相棒と化している。

もちろん時短・簡略化も楽しみなので、昨年後半、床拭きロボットが家にやってきた。

適度に業務遂行能力が微妙なところが、非常に人間らしい。

気付くと隙間に挟まったり、絨毯の下で蠢いていたり、一体あなたは実は何者?と思うくらい、人間寄り。

また当然、料理も下味を極めたり、調味料を煮切ったりしていない。

あくまで簡略、適当を目指しながらも、思い立った料理は自分流で作れる楽しみは味わえるようになっている。

そして、自分の中に変わらぬ日常が根付いたからか、去年のように、色々なことに惑わされづらい自分がいる。

とはいえ、ノミの心臓であることは変わりないので、すぐにビクビクモードになって怖がったりしてしまうが、それも自分。強がっていた昔よりはずっといいのかな、と自分を受け入れたりしている。

 

10年前のはてなの日記。時がつながるとき。

はてなブログの使い方が、まだちゃんとわかってないです。

今日☆をもらったという通知がありました。

きっとどなたかがつけてくださったんだと思います。

ごめんなさい、そこに辿り着くのもどうやって行けばいいのかよくわからないです…。

なんだろう、昔こんなじゃなかったのに、と思うのに、20代の俳優さんたちが同じに見えるとか、今流行ってる曲の歌詞にピンとこないとか、いろいろ感じてます。

ゆっくりはてなの仕組みを解明していくので、お礼の仕方もわからずごめんなさい。

自己紹介とか、もう少し充実させたいです。

日々の生活の余力で書いていて、系統立てられない。

いや、系統立てることが元々そんなにできないのかも。

とはいえ、生きてます。そう、日々生きている。もうそれでいい。

いろんな悲しみが出てくるけど、それがどこから出てくるのかもよくわからないことがある。

それでも、生きている。

それで、いいかなって思える時がある。

はてながわからない。どうしてだろう…。

でもね、すっごい昔にはてなブログ書いていたことがある。日記の代わりとして、自分だけ読める形で。

それを化石をみつけたみたいに、10年後に偶然見つけた。

そこには、スイスのベルンを旅して、石畳をBMWが走るときのガラガラガラ、という音と、ベルンの時計台と教会、そしてこんな街に暮らしたら、どんな気分だろうって書いてあった。

すごく不思議だったのは、日記を見つける直前に、ベルンで暮らすことになった家族の元を訪ねて2週間ほど暮らしたこと。忘れた日記にふと記した想いが、叶っていたんだと気づいた瞬間。

そんなことが幾つかある。

10年前の自分に想像がつかなかった今。

10年前の自分に想像がつかなかった展開。

周囲にいた友人と比べて、変化が多く、予測のつかない私の人生を、時に卑下してしまうことがある。

だけど、あの時のあの展開がなかったら、出会っていない、最愛の人たち。

人生の綾がどのように織られているのか、今は知ることができない。

だけど、今生きてる。それだけでいい。きっと。それは必ずどこかへ繋がっていく。綾の一つ一つを、織り重ねている、今。

 

 

 

 

孤独の中を通ってつながる

小学生時代、読書が好きだった。

本が好きだった。

家族で買い物に行けば、一人で本屋さんで、子供名作シリーズみたいな本を何冊も膝の上に乗せて、片っ端から読んで待っているような子どもだった。

本が好きだったのは真実。

だけど、本当はもっと他のおもちゃでも遊びたかったし、流行っているゲームもやってみたかった。だけどなぜか、母親に禁止された。

クリスマスも誕生日プレゼントも本じゃなきゃいけなかった。

父親があられちゃんの漫画を買ってきたら、母親に捨てられた。

国語科出身の母親、国語科出ても意味がない、と嘆く母親、その母親が私に唯一許したものが本。

小学校では他の友達に馴染めないし、流行りのドラマも見てないから話題にもついていけない。休み時間には気づいたらみんなグループ化して外に出て行って、誰も教室に残っていない。

私はがらんとした廊下を通って図書館に行って、一人で本を手に取って、それを読む。

さみしいような、恥ずかしいような、みっともないような気持ちを抱えて。

本の世界で見つけたことを、共有できる友達はいない。

でも、本の世界の中に、私の気持ちを共有してくれる人はいた。

そうやってずっと抱えていた寂しさも、大人になるにつれいつの間にか薄れて行ったけれど、いまだに、本好き・読書好き・孤独な女の子が出てくる物語があると、“作者よ、お主もか!“と、仲間を見つけた気分になる。

会ったことも、話したこともない、時代すら共有していなくても、子供時代の読書経験と、それに付随する孤独感、世界を共有できない孤立感と、自分の中に満ちた想像の世界。それらを一瞬で共有できる。

あの時の孤独の体験を通して、私たちは一瞬で繋がれる。

そんな気持ちを、お互いに知らないうちに、密やかに抱きあって、見えない空間でつながり合っている。今になって、あの時の孤独の中を通って、同じ孤独を知る人たちにつながることができる。

 

自分がエンパスだと気づいた話

エンパスとか、HSPとか(これら二つは違うものだけど)、このごろすごく聞くようになって、自分が繊細でおかしいんじゃないかと思っていた人たちには、朗報だと思う。

多分に漏れず、私自身も、自分の繊細さや、感受性の強さや、よくわからないそのほかの能力(能力とすら認識していなかったもの)に、振り回されてきた。

特に、会社勤めをしていた頃は、この能力で困ることが多かった。

例えば、会社のフロアで仕事していると、他の人の気配が気になって仕方ないとか、他の人の圧をいつも感じてしまうとか、人間関係(自分に関係あるものもないものも)が見えすぎたり、人の放っているエネルギー(だいたい黒いエネルギーだったけど)に疲弊していた。他の人より疲れていたから、自分の能力と結びつけて、自分が敏感すぎるとか、割り切れていないとか、そういう方向で考えてしまいがちだった。

あとは、その場(仕事場)から離れているのに、そこにいた人のことが頭から離れないで、ずっとぐるぐる考え続けてしまうというのにも困っていた。

それでいて、自分がエンパスやHSPだとは気づいていなかったので、(そもそもこういう単語が世の中に溢れていなかった)疲れやすいな、とか逆にどうして他の人は、こういうことが気にならないんだろう?こういうことに気づかないんだろう?と思ってはいたけど、自分にそういう能力があるというふうには考えたことはなかった。

また、エンパス能力に気づいていないがゆえに、グラウンディングや境界線の意識も薄いまま、無防備に無自覚にエンパシーを発揮してしまっていて、“自分“を守れていなかった部分もあったと、今はわかる。

その後、実際にエンパスでサイキックであるカウンセラーの方とお話ししている中で、どうも自分はエンパスらしい、ということに気づいて、そこからエンパスってなんなのかということを調べ始めた。

とりあえず、自分で認識できた能力としては、まず

人の感情を拾う。

これは、人混みや、会った人、ある場所にいた人(一緒にいなくても)の感情を文字通り拾う。自分が細かいネット(網)で、そこに、落ちている感情を拾ってしまうという感じ。

だから、突然意味もなく悲しくなったり、イライラしたり、不安になったりすることがある。ディズニーに行ったときに、お土産売り場で、突然悲しくて寂しい気分になったことがある。どうして、あんなに楽しいところにそういう感情が落ちてるのか?と思ったけれど。逆に嬉しい楽しい気持ちは落ちていて当然だから、もらって自分もより楽しんじゃうから、疑問に思わないけれど。

あと、共感覚と呼ぶらしいけれど、五感の感覚(例えば聴覚)を、別の五感(例えば視覚)で感じたりすることがある。これは、ローズ・ローズトゥリーさんの(ガリレオ・ガリレイさんみたいなお名前だけど)“エンパシー 共感力のスイッチをオン/オフしよう“に書いてあって、初めて気づいたものだけど、例えば、朝の鳥の声を、きらめく光のような視覚的にも感じたり、神社の鈴の音が、七色に感じられたりする。音が視覚化することが多いけれど、いつもではなくて、とても特徴的な、強い印象のある、きれいな音の時だけ、私の場合は起こるように思う。

こういう、感覚的な話って、言っている自分も、なんだか文章にするとあやふやで怪しいなぁ、なんて思ってしまうところがあるけれど、実際、自分の感覚なのだから、仕方ない。

エンパスとか、HSPというのは、全て本人の感覚に依拠しているだけに、そうでない人に説明したり、わかってもらおうとするとき、どうしても一抹の、“自分の思い込みなんじゃ“という、自己不信や自己否定とセットになっている。(私の場合は)。きっと世間軸に合わせようとしすぎてしまった過去の遺産なんだろう、と思って、これからは私自身の感覚をしっかり信じて、表現していこうと思う。それに、この感覚を持ったことがない人から見れば、“思い込み“という理由づけしかできないだろうと思う。やはり、自分の感覚や、自分の感じ方を信じることがすごく大切だと思う。

他にも、他人の感覚を自分のもののように感じる、というのがあって、これは私の場合だと、

相手の肩こりとか、体の痛みをもらっちゃうという場合もあれば、見た目はとてもいい人そうに見えるのに、その人の心の中が黒くて、その重みというか暗さにびっくりするというのがある。後者の場合は、だいたい笑顔で挨拶して別れているのに、その後に、自分の体が重たくなって、相手のエネルギーの重さにびっくりするという感じで気づくことが多い。

表面上の見え方と、中に抱えているものが違う人というのは、けっこういるんだな、といまだに驚くことがある。最初から、目で見えてればいいんだけど、体の感覚でもらって初めて気づくから、そのためにも、境界線の意識とか、グラウンディングしておくことがすごく大事だなと思う。

(そうじゃないと、細かい網目みたいに、いるものもいらないものも、知らない間にもらいまくってしまう。)

あとは、相手の価値観を無意識に取り込んでしまうくせがある。

これは、“未熟なエンパス“におこりがちなことではないかと思う。相手の価値観のコピーができるのだけど、相手の価値観は相手のものであって、自分のものではない。

エンパス能力がもともと高い人は、相手のニーズを汲み取るのが上手いので、知らないうちに、相手の価値観に見合うように行動してしまうことがある。これは幼少の頃からのくせなので、(母親に対する、エンパスなりの適応戦略かと思うが。)なかなか気づきづらいが、エンパス傾向の高い人は、普通にしていると相手のニーズを汲み取れるので、逆に常に自分のニーズに心を集中させるようにしたほうがいいと思う。

自分のエンパス能力に気づいてから、人と繋がる際に気をつけていることが、逆に繋がりすぎないこと。

世の中一般(今、変化しつつあるけれど)では、たくさん繋がる方がいい、というのが通説だけれど、私のような体質の場合、普通に繋がってしまうと困ることがたくさんあるので、いかにリセットするかを、いつも考えている。

“繋がろう“とかいう方向性でいくと、意図しないものまで拾ってしまうので、逆に私の場合は、いかに自分の領域を意識しておくか、という方に重きを置いている。そちらを意識していないと、無意識状態では、相手のエネルギーを取り込みすぎる可能性がある。

それから、“繋がろう“の前に、相手を見る。客観視というか、第三者視点がいつも必要に思っている。第三者視点というのは、まず自分の視点があり、(エンパスはここが手薄なことが多いので、まずは自分の視点に集中する必要があるが。)そして相手の視点がある。相手視点にはいつもエンパスは寄り添いやすいので、相手の視点はそんなに気にせず、普通にしていても、自然に汲み取っている。その上で、相手と自分の視点を客観視する、第三者視点をいつも持つようにすることで、相手との適切な距離が測れるようになる、と思う。

私はまだ、自分の視点を確認する、というところと、第三者視点の練習をしているところ。

とにかく、“繋がろう“よりも、“自分としっかり繋がり“、“識別し“(客観視)、頻繁に“リセットする“。

誰に会っても、必ず自分のエネルギーをクリアにして、自分の領域をはっきりさせておく。

これが、いわゆる“繋がる“ことよりも、私にとっては大事なこと。